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murawaki の雑記

2011-07-16

続「訓読」論

中村春作ほか編: 続「訓読」論--東アジア漢文世界の形成 (2010)。

超久しぶりにアフィる。毎日毎日いろんな文献を読んでいるが、(1) 単行本で (2) 日本語で (3) 流通している本を読むのは久しぶりのような気がする。せっかくなので感想などを書いてみる。

渡辺純成「満洲語思想・科学文献からみる訓読論」

この本は論集。いろいろ収録されている。当初の目当てはこの論文。日本語と対照させる議論は刺激的。

満洲語は、語順その他は日本語に近い。漢語と地理的に隣り合うが、まったく異なる言語。文字はモンゴル文字を元にした満洲文字。中東起源の表音文字。わざわざ遠くの文字を採用していることからも、いかに漢字の使い勝手が悪いかわかる。

著者は満洲語の翻訳文献について以前から発表していた。『満文大学義』とか『満文性理精義巻』とか。一応確認はしたけど、生データを提示されるばかりでつらい。今回のは総説で、分析が豊富。紹介している文献は、表題の通り大きく分けて2種類。思想文献と科学文献。前者はさらに2種類、儒学・性理学 (朱子学) 文献、カトリック文献からなる。

最初の分析対象は儒学・性理学文献。それが意味するところは二つ。(1) 原文が漢文。(2) 訓詁学的というか、一字一句を吟味しないと気が済まない種類の文献。今日的には不毛なことに力を割いているように見える。

面白いのは満洲語では当初から「「マンジュ」のことばの占める比率が高かった」(p.236) こと。 支那を征服した満洲人の方が日本人より漢語べったりと推測しそうだが、語彙的には正反対。「現代日本において、儒学漢籍の翻訳書が未だに漢語そのものの語彙で溢れかえっている」(p.236)。例えば、日本語では、「仁」とか「義」とか「忠」とか言って、平気な顔で漢語を使っている。満洲語だとそれぞれ gosin, jugan, tondo と自分の言葉を充てる。

徹底した満洲語化の理由として、著者は一種の言語ナショナリズムを挙げる。でも、たぶん漢語の忌避には技術的な理由もあると思う。表音文字を使っていること。満洲語は単純で声調もない*1表音文字で漢語を転写すると同音異義語だらけで悲惨なことになる。音声的にも満洲語と漢語は親和性が低い。

満洲語訳は何度か改定され、後のものは漢語由来の語を徹底的に排除している。では漢語とは無関係な満洲語の世界が作られたかというとそんなことはない。単に借用するなら何も考えずにできるが、訳語を作るにはちゃんと原文を解釈しないといけない。解釈を厳密にやっていくということは、漢語と満洲語の間の mapping を厳密に作り上げるということ。それは漢語の体系に従って満洲語が再編成されるということ。

解釈の厳密化。複数の漢語に一つの満洲語を対応させていたのを分離する。例えば、「意」、「情」、「志」に gūnin を充てていたのが、gūnin, buyenin, mujin と訳し分ける。後の二つは新造語。

形態素レベルで漢語と対応させている。「同一の漢字が名詞的、動詞的に用いられる場合に、満洲語訳でも同一の語根を持つ名詞と動詞を充てる」(p.236)。動詞「体」に満洲動詞 dursule- (名詞 dursun 「からだ」の動詞化) を充てたのと整合性を取るために、名詞側でも「体用」の「体」にまで dursun を充てるようになったとか。

「漢語由来の語をまったく含まない純化された満洲語の世界は、乾隆帝によって作られた伝統に過ぎなかったのであるが、このことは、日本列島の古代について国学者が語った、純粋な「やまとことば」の世界が、やはり作られた伝統であった可能性を示唆している。」(p.236) とは言うけど、作られた伝統でも何でもいいので、最初の一歩を踏み出すのが大事。とにかく自分の言葉に直して、運用していけば翻訳元言語から離れていくはず。ドイツ語とかもそんな感じではなかったか。

次に分析されるのがカトリック文献。おまけ程度の扱い。カトリック満洲語文献は漢籍からの翻訳。儒学・性理学の述語を使う。面白いのは以下の記述。「満洲文語は、曖昧さを許容する度合いが漢語文言文よりも低いので、漢語文言文のテキストに対して施した強引な解釈を、満洲語に翻訳したのちも維持し続けるためには、既存の満洲語訳文を改竄」(p.245-246) していること。漢語の「神」は、「霊妙な/霊妙さ」を意味する形容詞/名詞、あるいは超自然的存在 (「鬼神」の「神」) を意味する名詞。満洲語ではそれぞれ ferguwecuke, enduri と訳し分けている。カトリック文献では、典礼問題の都合で、前者の意味の漢語を強引に後者の意味で解釈していた。けれど、対応する満洲語訳は後者の訳が充てられていて、その解釈が通用しない。仕方なく満洲語の原文を改竄して引用している。

最後が西欧の科学技術文献の翻訳。この節はやばい。「漢文脈なき「近代化」の可能性」という副題が全力で私を釣る。

最初に取り上げるのはユークリッド幾何の文献 (『原論』ではないが)。つまり元はヨーロッパ言語。実は漢語版も存在するけど、満洲語からの重訳。つまり漢語抜きで成立した文献。満洲語は漢語よりよほど西洋的論理と親和性が高い。「西欧的論理が、漢語文言文に特有の修辞に煩わされることなく、後年の『數理精蘊』よりもはるかに素直に表現された」(p.248)。「明治日本において西欧科学の媒体として訓読文の文体が選択された理由は、言語固有の性質にはなかったことが、以上の事実からわかる」(p.248)。

余談。まあ、そうは言ったものの、満洲語で書けば分かりやすいかというと、そんなことはない。現代人にはかなりつらい。同じ著者が『満文算法原本』の転写、英訳および注釈を出しているので読んでみた。文章でだらだら説明している。「giya (甲) をああして、i (乙) をこうして、そうすると…」といった具合。記号のありがたさを思い知る。

次に取り上げるのは解剖学文献。満洲人自体は農耕民だが、モンゴルの影響が強いので、解剖学の述語が自前でまかなえている。この点日本語とは大違い。「満洲文語は康熙年間にすでに、近代解剖学を伝達する媒体として漢語文言文よりも優れていた」(p.249)。

そんな感じで頑張っていたのに継承者が現れずに滅んでしまったのは返す返すも残念。満洲語がもっと元気なうちに、いわゆる Western impact が起きていたら、状況が変わっていたのではないかという妄想が浮かんでくる。西洋言語との親和性満洲語の方が文語の漢語よりもはるかに高い。満洲語が近代化のための言語としての地位を確立できていれば、白話運動などを生まれる前に潰して、漢語を駆逐できたかもしれないと考えたりする。

この論文では一瞬しか触れていないけど、チベット語から満洲語に訳された文献もある。Kanjur。巨大な文献で108巻もあるけど、流通はしなかったので影響は限定的。Kanjur にはモンゴル語の翻訳もある。なぜ日本語で同じことが起きなかったのかと考えると、日本がいかに異常かわかる。どうして漢文の仏典をそんなにありがたがったのか。どうして日本語に翻訳しなかったのか。漢語仏典の影響が強いウイグル人も、せっせとウイグル語訳を作っていたのに。なぜ翻訳元の原典を求めようとしなかったのか。文法的に見れば、漢文よりも日本語の方がよほど正確に翻訳できそうなのに。

伊藤英人「朝鮮半島の書記史--不可避の自己としての漢語」

予想外に面白かったのがこの論文。その発想はなかったという指摘がいろいろ。ただちに同意するかは別として。

  • 「「外国借音」と呼ばれる各国漢字音の成立は「中国人にならずに中国文明を受容する」ための装置である。中国語の部分を本来の中国音で発音し自言語部分を自言語で発音する発話は「コードスイッチング」であり、中国語部分を発話するときは「中国人の顔になって」発話がなされる。(中略) コードスイッチングは優勢言語への同化を齎す。(中略) 朝鮮民族がいくら膨大な中国語借用語を取り入れようと漢民族にならないで済んだのは、現代日本語がいくら英語借用語を増やしても日本語話者が英語話者に同化しないのと同様である」(pp.146-147)。漢語音を「自言語の音韻の範囲内」で取り入れるのがポイントらしい。
  • 口訣について触れて、「日本と違って「書き下し文」が記された例は発見されたおらず、日本語のような漢字仮名混じり文が釈読から生み出されることはついになかった」(p.149)。これは漢文の訓読に関する議論。
  • 一方吏読は自言語の表記法。「朝鮮半島における公的な記述は全て漢文で行われ、日本の『古事記』のような文献が吏読文、すなわち借字表記法によって書かれることはなかった。」(p.151)
  • 訓民正音について。「本来であれば十五世紀に確立した標準朝鮮語文章語がのちの規範言語として古典語化されるはずであったが、そうしたことは起こらなかった」(p.152) 「『古今集』以来の和歌の伝統や定家以降整備された参照枠としての自言語の古典をもった日本語とは」異なる (p.157)。
  • いわゆる「諺解」本について。「「諺解」は「読み下し文」ではなく、あくまでも「翻訳」であった」(p.153) 意図するところがよくわからない。漢語と棲み分けていたことが言いたいのだろうか。
  • 「諺解」は民衆、女性向けで、士大夫層の漢文能力が向上した結果訓読法が消滅し、漢字は、用途が限定された吏読を除けば、全て漢文表記のために用いられた。
  • 「近代以前の朝鮮で男性が男性から諺文を習ったという記録はひとつもない」「男性も女性から諺文を習っていたと思われる」(p.157) これは初耳。文献の引用がほしい。
  • 植民地期及び解放後しばらくの韓国における漢字混用文の多用は、朝鮮語書記史の中の例外的な時期である。」「訓民正音公布以降、朝鮮半島では漢字は漢文に用いられ、朝鮮語は主にハングルで書かれるのが普通であったからである」(p.159)。
  • 紀元前から中国語と接触してきた朝鮮語は大量の中国語起源の語層を自らのうちに貯蔵している」(p.160)。「山」を表す固有語も「川」を表す固有語も漢語に置き換えられてしまっている。でも、漢語を自己のものにしているから、san という音と「山」という意味、kang (江) という音と「川」という意味が頭の中で対応しており、表音文字による表記だが表語的である主張する。もちろん対照されるのは日本語。日本語では、漢語が異物のままで、訓読みを通じて意味と結びついており、音だけで「サン」とか「セン」と言われても何の意味かさっぱりわからない。しかし、にわかに信じがたい。朝鮮漢字音でも、一つの音節が大量の漢字と対応するから。本当に音だけで意味と対応がつくのだろうか。

*1:音素もだいぶ足りてないが、漢語用の字を新たに作ってしのいでいる。