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murawaki の雑記

2010-02-24

Empires of the Silk Road

Christopher I. Beckwith. 2009. Empires of the Silk Road.

中央ユーラシアの通史。時間的にも空間的にも広すぎて、個人の手に負えるとは思えないテーマ。当然端折りまくり。重要な事件でもまったく言及されてなかったりする。

Beckwith という人は言語の人だと思っていた。しかしこの本では歴史をばりばり書いている。どうやら私の思い込みだったらしい。bibliography に挙げられた本人の論文一覧を見ると、昔から歴史をからめて議論してきた様子。

本文では主に歴史を扱っている。言語の議論は appendix と endnotes に押しやられている。私にとっては、むしろこっちが中心。本文は endnote の文脈を知るためにある感じ。内容的には、過去の論文で提示したものだったり、それが微妙に修正されていたり、初めて見るものだったり。初見のものでは、例えば、「月氏」の「月」が *Tokʷar/*Togʷar を写しているとか、「羌」が印欧語の *Klānk- から来ていて、「戦車に乗る」という意味だとか、にわかに信じがたいが面白い。

本文は完成度が低い気がする。(多分読者にとってあまり馴染みのない) 固有名詞が十分な説明なしにどんどん流れていく。これは Amazon (米) の書評でも指摘されている。著者の主張は prologue と epilogue にある。ここで挙げている論点ごとに章を立てた方が良くて、通史の形にしない方が良かったのではないか。通史としては、他人の論文のつまみ食いになっていて、議論が深化していない。自身の主張を証明する論拠という形で資料が配置されていないので、証拠もなしに主張だけしているような印象を受ける。

著者は Central Eurasian Culture Complex という野心的な概念を提案し、それが中央ユーラシアの諸集団に広く当てはまることを述べる。中央ユーラシアというと、トルコ系やモンゴル系を思い浮かべるが、著者は印欧語話者にかなり重点を置いている。また、印欧語話者の中でも、スキタイだけでなくローマなども Central Eurasian Culture Complex の例に挙げる。

これに対する支那などを大胆にも peripheral people と呼んでいる。peripheral people についても、中央ユーラシアとの関係で適宜言及している。しかし、その選択が恣意的に思える。シュメールやアッカドが一切出てこず、いきなりスキタイのような印欧語話者の話から始まる。まるで印欧語話者が文化を創始したかのような錯覚を受ける。

本文の最後の 1/3 ぐらいが "Modernism" 批判。Amazon の書評でも大不評。"Modernism" という言葉の意味は特殊。著者がやたら力を入ているが読み飛ばした。現代史を無理やり要約されても新情報がないのも問題だが、そもそもの不幸の原因は、この表題の本を手にとった読者がそんな議論を求めていないことにある。

あとは気づいた点を挙げてみる。

  • Chapter 4. p.106. 日本で comitatus にあたるのが「舎人」と言われてもピンとこない。著者の理解では、古墳時代から武士の成立までが連続しているらしい。殉死の習慣も連続的らしい。しかし、間に平安時代が挟まっているし、軍人の構成員も変化している。通俗的な理解と異なるので、強い主張であれば通説への反論を書いて欲しいところ。引いている Farris 1995 に何が書いてあるのか気になる。
  • Chapter 9. p.225. 明政府が反乱鎮圧を求めてドルゴンを招いたという。Ming government とは呉三桂のことを指しているのだろうが、misleading にもほどがある。
  • p.226 からのオイラトの説明が謎すぎる。そもそもオイラトが Noghay Horde の一部だったとか、一部がロシアに服属したとか。この部分の記述は、主にPerdue 2005 という未読の本によっている。表題が China Marches West: The Qing Conquest of Central Eurasia というところから推測するに、オイラトの史料をちゃんと扱っていないのかもしれない。 追記: その後自分で読んでみたら、ちゃんとした本だった。
  • p.227. ジュンガルの Khara Khula "Khan" というが、ハラフラはハーンになっていないはず。同様に、Baibaghas も Oirat khan ではない。宮脇淳子氏の論文を調べたら、ザヤパンディタ伝にはバイバガスをハーンと呼ぶ記述があるらしい。間接的な記述。「Khara Khula は1634年にハーンを名乗ったが、チンギス裔でないことから翌年殺された」と断定している。ハラフラが混乱の中で死んだというのは確認できるけど、ここまで断定的な記述をするからには根拠が知りたい。
  • Chapter 10. p.235. モンゴルの旗の説明をする時に八旗の話をするのは misleading。ニルが 300 人から構成されていたという話はほとんど無関係。
  • p.236. Battle of Jao Modo とか書かれるとガックリくる。モンゴル語の地名はモンゴル語で写して欲しい。
  • p.243. General (Shôgun) Toyotomi Hideyoshi と言われるとずっこける。
  • p.258. footnote 80. チベットがモンゴルの影響下でずっと統一されていたというのは明確な誤り。この部分、論文を引いていない。
  • Epilogue. p.345. Perdue 2005 を長々と引用している。ここが突っ込みどころ満載。Altan Khan を grandson of Batu としている。Batu Möngke のことか。the twelve Tümed (ten thousand-man units) としているのも misleading。Tümed 部があって、それが 12 の集団から構成されていたということ。Tümed の語源が tümen の複数形であっても、tümen が 12 個という意味ではない。